昭和40年05月14日 朝の御理解
修行に取り組ましてもらうと、あらゆる角度から、愈々よい信心を頂くために精進をしなければいかんと。まず、一生懸命お参りをする。教えを頂くと、そうしてそれを本気で教えに取り組ませてもらうということ。ほんとうの意味で有難い信心生活が出来ると言うこと。信心生活というものは、どう言う様な見地に立っての生活でなからなければいけないか、基本的なその思い方、本当の思い方というもの。
久留米の初代の石橋先生が、あるとき、御本部から偉い講師が見えられた。信心生活についてという講題の下に講演が行われた。ところが先生も私とおんなじで、あんまり学問をしておんなさらん、それでそのう、学問をした先生方の難しいお話が、大変難しく感じられなさった。頂きなさったことは、頂きなさったけれど意味が分からなかった。そこで神様に、只今信心生活ということについて、お話を頂いたんで御座いますけれども、私には、難しくて分かりません。
大体どういう風なあり方にならせて頂いたら、信心生活が出来ましょうかと。神様にお伺いをされた所が、すぐ神様がお知らせを下さった。生れたばかりの赤ん坊が、布団の上に休んでおるところ。そしてそれに紅白の水引を掛けてある所を頂かれた。これが信心生活じゃと、神様が仰ったというね、本当の信心生活というものはそう言う様なもの。誰でも生れて来るときに、衣一寸でも自分の身に着けてきた者はおらぬ。
いわゆる真っ裸。ですから自分のもっておる一切のものにです、一切のものがあなたの御物であるという自覚。こうやって、今日も例えばきています家も、こうしてほんなら私の所有のものがあるけれどもです、私の所有とゆうことにはなっておるけれども、実際にはあなたの御物であるという自覚、私のものという、一物とてもないということ。一糸一物とてもないということ。ね、
皆んながあなたの御ものであるという自覚。そういう自覚考を基にして、生活をする生活を信心生活というのであると神様が教えられたということですね。確かにそうだと思いますですね。そこに私は愈々おかげ頂けれる大きな道が開けてくるとこう思うのですね。そこでそれを、まあ具体的にそう言う様な事が、本当にそうと感じられるために、まず私共の心の中から、いわゆる私のものと思う汚い心というか、卑しい心というか、そういう心を先ず取り除かなければならない。
無理算段、無理算段どころではない、その、人から悪く言われても、とにかく道ならぬことをしてからでも、例えば、自分のものにしようとする、そういう汚い心。今朝そんなことを、私ふっと思わせて頂きよりましたら、お芝居にあの、「塩原太助」の「愛馬の別れ」というところがあるでしょう。あんな場面を頂くんです。ここで、あの、馬のお知らせを「卑しい心」とおっしゃる。
「馬、馬」と、馬、馬、卑しい心と。「塩原太助」というのは、まあ私流に頂けば、まあ、修行の心と。「太助」というのは大きい、太い心ということだという風に感じたんですけれどね。私共の心の中からその、いわばそういう愛馬との別れが中々辛い。それを取り除いたら改まったら、もう本当に寂しい。我情我欲が心の中に一杯在るほうが心が賑やかなような気がする。中々その愛馬との別れが難しい。ね、
そうでしょう、例えばタバコをのむ人に取ってこらあ、卑しい心じゃないですけども、よくいうでしょう、「もうほんに、人間はタバコのみばっかりはいやしか」ち。もう自分が忘れとっちゃ、「ああたちょっと一本くれんの」ち、言うてから、もう貰うてからでも吸おうとする。ほんにタバコのみは卑しいと。もう酒飲みばっかりは卑しいと。と言った様な意味のことを申しますね。
卑しい心、酒やタバコだけのことだけじゃありません。もういろいろの意味あいにおいてです、いわばその心の中にむさぼり耐えるような心、むさぼる心食べ物だけの事じゃありません。そう言う様な心がお互いの心の中にある。ですからそういう心取ったら有難いのです。ことは分かってるんですけれども、それと別れるということはです、中々その別れが出来んのです。ね、
ですからその何かのですね、何かの機会がなからなければ、中々別れることは出来ん。例えて申しますならです、今度の青年会の方たちが全部「この御造営の済むまでは、タバコを辞める」という、なんかそういうようなです、何かチャンスがなからなければ、中々思い立ちもしませんし、思い切ることも出来ません。先ずは私共の心の中から、いわゆる、私共の折角育っておる信心の有難いという心を、蝕むものそれは私共の心の中にある卑しい心、汚い心いうなら。ね、
そういうものがあっては、私は一番初めに石橋先生の例を以って申しました、一切があなたの御ものと言った様な自覚が出来ません。どうでしょうか。昨日皆さんここで13日会があり、引き続いて幹部の方達の、建築部の方達を除いて、他の部の方が大概集まって、建築部は後で建築部だけで集われるというておられましたが、私はそれに参加致しませんから二階に上がって、ちょっと四、五分間横へとならして頂いた。
横にならして頂いたから頂ますことがね、それはそのまま夢はこんな夢だったんです。高い山になるとですね、「夏でも雪が積もっておろうが」という意味の様な事を頂いた。高い山になるとですね、夏でも雪が積もっておる。ね、そうですね。お互いのその修行というか苦労と言った様な物がです、ね、何時までもその自分に汚い心へ、汚い心只今言うその、卑しい心、と取り組んでからの苦しみとか、一般の人が言うておる、苦労を苦労と感じる様な事ではつまらん。
だんだん苦労もです、修行というてもです、超えるようになっていかなればならん、高いものに。ね、「富士の高嶺にいつも白雪」というが、その富士の高嶺に積むような雪といやあ、まあ修行のことだと、こう思うのですけれども、高いものであれば高いもの程、夏でも雪が積もっておるようなもの。高度ないわば高度な修行、高度な心しかもそれは、絶えず、いつもそこに私はこの有難い。
私はそれを頂いてから身体がなんか、こう疲れて掛っておるときに、しゃんとした様な気がしまして、すぐ下りて参りました。そこで皆さん、婦人部の方達帰ろうとしよんなはったから、そこで私は、そこへ座ってから、そのことを話したことでした。信心というのはですね、そういうその修行から抜け出そうといったようなことでは、おかげになりません。その修行でもです、本当にその高度な高度なもの。
神様が苦労をなさるような苦労が、自分で出けるような修行を以って、私は有難いその代わり四方の山を、見下ろしてというように、富士の山じゃないですけれども、自分が高められるということがです、抜きん出て高められるということがです。ね、四方の山を見下ろせるようなおかげ、ということになるのじゃないでしょうか。ね、そう言う様なそのおかげを頂くためにです。
また一切が神様の御ものだと、という自覚と言った様なものが自ずと備わってくるおかげを頂くためにです。私は様々な修行をさせて頂かなければならないと。今日はもういうなら大変高度な信心ですたいね、高度な信心を目指して、そういうおかげを頂きたいと、四方の山が見おろせるような、高度な信心になりたいと。というそう言う所が、機会とかチャンスとか言った様なものは、何時もあるものではないということ。私の信心は高度だと言うわけじゃないですけれども、ね。
やはり終戦引き上げ、そして職を失うとと言った様な、何か特別のそして次々と近親者をなくしていったと、それにかてて加えてそれの貧のどん底の生活をさせて頂いたと。そういう時にです、ギリギリ普通では出来なかった修行をです、いわばあの時分に私は自分の心の中に思う事は「塩原太助」の「愛馬の別れ」じゃないけれども、私の心の中からもう是は、めにゃいけんと、是は取り上げにゃいけんと思いよった事がです。
取り上げなかったことが、ま、その出来る様になったのは、私はあの時代だったとこう思うのです。皆さんどうでも、皆さんの心の中からです、いわばその、愛馬の本当の決別をなさらなければいけませんです。いつもかつもちゃでけませんから、何かそこに、潮がある、ね、機会がある、そういう境に私のいわば、卑しい心と別れを告げる。別れるときに、それこそ血の涙がでるようにあるけれどもです。
さあ別れた後の楽な事、例えて言うならばです、一切があなたの御物であると言う様な、石橋先生のそういう信心にですたい、自分のものは一物とてない、そう言う事の自覚にたって来る時には実に楽なものが生まれて来る。例えばその借金を持っておっても、その借金は私の借金ではない事になるんですからねえ。例えどれだけ財産持っておったて自分のものではない、いつでも神様に水引を掛けておくようなもの一切の物に。
福岡の高橋さんとこのちょっと、一、二軒手前にあの、大丸という大きな家具店がある。甘木の有名な御信者さんです。大変な難儀なとこを通りよんなさると、甘木の親先生の御徳で現在の財産が出けた。ね、御本部へ毎月夫婦で二回の月参りがある。福岡から毎日甘木のお日参りがある、いうたら信心にかかってござる。それで、あの繁盛をみておると。甘木の親先生が御本部参拝の帰りに必ず立ち寄られたと、ね、
そしてその方が何時もこれは、何時も誰の前でも本当にそうなんだから、いいえられること、ね、これは私の財産じゃありません。甘木の親先生の御財産だと。○○さん、幾ら幾らいるばい「はい」いつでも、ここに私が持ってる財産の全部をです、親先生の前に差し出すことができるというて、いうておられる。と言うて甘木の親先生が「○○さん幾らいるばい」ち、言うて一遍もおっしゃったことはないち。ね、
その気持ちが楽でしょうが。ほんならどうぞ私の財産をどうぞ先生お使い下さい。全部「ああそう、ほんなら幾ら幾ら」そんな事は無いんですねえ。もう一切があなたの御物であるという自覚にたった時にです、ね、そういう事が無いからそれが言えれるのではなくて、それが言えれると所には、もうそれがいわば神様のものは自分のもの、自分のものは神さまの物と言う様な素晴らしい事になっとると言う事なんです。ね。
親のものは子のもん、子の物は親のものと、こういうかね、ね。、親のものは子のもん、子の物は子のもんといったような、状態ではないかということです。これでは何時までたっても楽になれないのです、心の上に。汚い心があってですたい。ね、そいつの中身はもう、つらいです。少しばかりの金でも出すとそれについて行こうごたる。・・・・?言うてからでも、自分のところに集めようごとある、これでは、本当の信心生活だから、本当の信心生活とはらくなこと。
また、石橋先生が仰った。「世間ではなあ、無い袖は振られん」というけれども、「信心修行させてもらう者は、無い袖でもこう、振らなきゃ本当の修行にはならんばい」とおっしゃとった。素晴らしいことでしょう。ね、普通のものは、無い袖は振られんというけれども、そういう意味合いにおいて信心修行をするものはです、ね、いわば真の信心の生活ができるおかげが頂かれる。
愈々その自分の信心の高度が高められたものに、成って行くことを願いとする信心。いわば信心を自分のものとする信心。神様のものは自分のもの、自分のものは神様のものと、神様と私共が一つになった生活。そういう信心生活を求めるならばです。一般の人はです、昨日これは昨日丁度、朝の一時半までかかってから三百枚からの、今夜のこの福岡の方たちと久保山先生の茂さんと、みんな残りましてから全部でけたんです。
皆さん帰られてから。これを謄写版刷りに致しまして、皆さんの手もとに是をみんな差し上げる事になる訳でしょうけれど、その中に御造営の各家々の一人是を配って、そしてお互いが今度の御造営についてのどれだけの、例えばが献納が出来るか。いわゆる無記名、自分の名前は書かずに、自分は何月に幾何月までに幾ら、いやいや確実にお供えが出来るという事を、企画の方達にこれを提出する事になっている。
でないとその計画が立てられないという訳なんですね、企画の方で。それをまあこれが、出けたんですが、そのことを私取次ぎさせていただいてから、この頂くことですね。「奉る」という字を、こうえらい下の方で踏ん張った、いわば「奉る」なんです。ね、こう書いてあるやつを、こう踏ん張ったふうに書いて、中に「キ」というやつを書いてあるでしょう、こうそれが小さく頂くんです。
あんまり踏ん張りすぎてはいけんということ。あんまり踏ん張り過ぎてはいけん、そして中の「キ」という「キ」は喜ぶということ。喜ぶが、こもうなってしまう。ね、ちょうど適当に、その、こう、せにゃいけんと言うような御理解を頂いた。だからとにかく、まあ、お供えには、喜ぶと、謹みを添えてのもの、でなからにゃならんから、必ず、これ以上のことを、幾ら書かなければならんということはない。
もう出けないなら丸もうゼロ、○をかいてもええてね、幾らでも自分が是だけの事をおかげ頂きたいというものをです、提出されなければいけん不浄がついちゃいけんと言う様な御理解を頂いた。その後に只今の事を頂くんです。こ・・・?厳しい。んならそういう信心を目指す人は、そういう訳にはいかんのです。只今本当の信心をです椛目で信心の稽古をさせて頂こうと、それを願いとされる方にはそげなこっちゃいかん。
もう無い事は神様ご承知だからそげなことはでけんち。を世間じゃ、世間一般のことでいうならば、今、私が言うた通りのこと。けれどもです一般の人は、世間の人はです無い袖は振られんというけれども、無い袖のもう一丁向こうの袖を振らなければです、神様に通うような、いわば高度の信心の過程としてです、出来る事じゃないと。ね、それだけにやはり自分の心の中の汚い心が、それをむしばむのである。
そう思うてもそげんまでせんでよかろうと言うて、蝕むのである。おしみがつくのである、ね。そういう信心と同時に、私共の心の上によい信心の芽を蝕むものは、やはり卑しい心。ね、「塩原太助」のいわば、「愛馬の別れ」である。この改まりとそのことの勇猛心と、が、私共の信心真の信心生活を目指させて頂く者の上にです、そういういわば厳しい修行、それはいつもかつもではない。
中々それは機会がない、チャンスがある。まあそれをひっり返して言えばです、そういうおかげの頂かれるチャンスというものは、何時もかつもザラにあるものではないという事。是だけ本当はと言った様なその時にはです、そこに修行がなされなければです、又そういう修行をする時は又とは無いという事。そういう風な事を、頂く。皆さんも心の中から、言うなら愛馬との別れが本気でなされなければならない時である。
または、無い袖は振られんというけれども、無い袖のもう一丁向こうを振らせていただこうというような、勇猛心がこの際、ね、本気での信心を求めさして頂く者の上には、なされなければならないということ。そこに、一切があなたの御物であると言う、真の信心生活がね、、実感として頂けれるようになると、そこにはです、神様のものは自分のもの、自分のものは神様のものと。
先ず自分のものは神様のもの、神様のものは自分のものと親のもんは子のもの、子のものは親のもんと言った様なです、有難いおかげが限りなく頂けていける事になる訳なんです。ですからそういうおかげを頂いておるという人はザラにおるんじゃないです。ね、そういう真の信心生活は中々皆んな出来てはいないです。けれども椛目に御神縁を頂いておる皆さんはです、そういう信心を言うなら富士の高値を目指して頂いて、ね、
目指せば目指すほどです、自分の視野というか分野というか、これが段々広がってくる。ね、そして四方の山を見下ろせるようになる、ようせんようになるから楽になるというのじゃない。なれば成程夏でも雪が積もっておろうがと言う様なおかげ、四方の山を見下ろせる、四方からまた見上げられる。そういうおかげを頂くためにです、そういう徳を身に付けていくことの為に、信心の稽古させて頂く。こうとこう願わせてもらう、そういう信心を一つ皆さん目指して頂きたいと思うですね。
おかげ頂きました。